構成文化財

22大和大圀魂神社やまとおおくにたまじんじゃ

大和大圀魂神社は、ヤマト王権の直轄領である屯倉(みやけ)に近い、南あわじ市榎列(えなみ)上幡多の小高い丘に鎮座しています。淡路島では二宮ともよばれ、一宮である伊弉諾(いざなぎ)神宮に次ぐ重要な神社です。
国生み伝承の淡路島で、伊弉諾尊と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神を島の神とし一宮として崇め、海人として活躍していた豪族:倭氏の氏神を意味する神をこれに次ぐ二宮として鎮められており、重要な神社として崇められてきました。
創建年代は不明ですが、ヤマト王権が淡路島と関係を深めた5世紀に奈良県の大和坐大国魂(やまとにいますおおくにたま)神社(現在の大和神社)から分祀されたといいます。倭氏は、地域で活躍していた「御原の海人」を統率していたとされています。大和坐大国魂神社の最初の祭主:市磯長尾市(いちしのながおち)は、倭氏の遠祖にあたり、九州地方の海人出身であったといわれています。このことから、海人と深い関係にあった神社です。

■ 日本書紀に見る大和大国神
日本書紀によると、崇神(すじん)天皇6年に登場します。天照大御神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二神は、天皇の御殿でお祀りされていました。崇神天皇の頃、国内は疫病が流行り、世の中は混乱していました。それはこの二神のためと恐れられ、崇神天皇は神威を畏れ、二神を宮中の外で祀ることにしました。
そこで、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に、倭大国魂神は淳名城入姫命(ぬなきいりびめみこと)に預けられて祀られました。
ところが、淳名城入姫命は髪が抜け落ち体が痩せて、お祀りすることができなくなりました。
崇神天皇7年8月7日、倭迹速神浅茅原目妙姫(やまとはやかんあさじはらまくわしひめ)、大水口宿禰(おおみなくちのすくね)、伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人が同じ夢をみて、「市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、必ず天下は安定するだろう」と神託を受けたと天皇に申し上げました。こうして、市磯長尾市を祭主とし、ようやく疫病が収まって、五穀は実り、国内は鎮まりました。

大和大圀魂神社の歴史

社殿の向きを変更していた

現在の社殿は南南西を向いて建てられていますが、古代には西向きで、播磨灘に向いたそうです。
古代、現在の平野は、「御原の入江」が深く湾入していました。海上を通る舟人が礼拝しないので、祭神が怒って祟り、それを避けるために南向きに変更されたと伝えられています。

歴史的人物も訪れていた

正応2年(1289年)に時宗の開祖、一遍上人が当社を詣でました。当社前に小屋を建てて踊り念仏を行ったと伝えられ、その様子が、国宝「一遍聖絵」に描かれています。和歌「名にかなふこころは西にうつせみの、もぬけはてたる聲ぞすずしき」を詠み、これを木札に書いて社殿正面に打ち付けました。

県指定有形文化財:大和社古印

大和大圀魂神社に所蔵されている古印は、神社の境内から出土したものとして、古くから同社に伝わっています。社伝によるとこの印は、江戸時代後期に神社別当寺(べつとうじ)(注)延寿院(えんじゅいん)で保管されていた時に火災にあい、所在が不明となっていました。その後 、社地改修の際に延寿院跡から出土したと言われています。 往古の姿を備え、平安時代後期をくだらない貴重な遺品です。

注:別当寺 … 神社境内に建てられ、長官が住み、読経・祭祀・加持祈祷とともに神社の経営管理を行った寺

指定等の状況 未指定(大和社印は県指定有形文化財)
住所 〒656-0422 兵庫県南あわじ市榎列上幡多857
TEL 0799-36-3984
お問い合わせ 大和大圀魂神社
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