日本遺産「国生みの島・淡路」
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古事記に描かれた天地創造の物語「国生み神話」

古事記に描かれた天地創造の物語「国生み神話」
国生みの島・淡路。ここは伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が
天沼矛(あめのぬぼこ)で下界をかき回し、日本で最初に生まれた特別な島です。

日本で最古の歴史書『古事記』の冒頭を飾る「国生み神話」。そこには、伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱の神様が生まれたばかりの混沌とした大地を天沼矛で「塩コオロコオロ」とかき回すと、矛先から滴り落ちた塩の雫が固まって「おのころ島」ができたと記されています。

おのころ島で夫婦となった伊弉諾尊・伊弉冉尊は、日本列島の島を次々と生んでいきます。その中で最初に生まれた島が淡路島です。

二柱の神様が沼矛で下界をかき回し、落ちた塩の雫からおのころ島が生まれた描写は、「海人(あま)」が生業とした塩づくりの様子に重なります。また、沼矛でかき回すことによって下界が渦巻くさまを記した場面は、海人が活躍した鳴門海峡の巨大な渦潮を想像させます。

現在も鳴門海峡では世界最大級の渦が巻き、島の内外には絵島や沼島、自凝島(おのころじま)神社などおのころ島の伝承地がいくつも点在します。また、国生み神話ゆかりの「えびす舞」を起源とする淡路人形浄瑠璃も地元の淡路人形座によって大切に伝承されてきました。

古事記編纂から千三百年の時を経て、脈々と受け継がれてきた壮大な天地創造の物語。淡路島は今も、国生み神話を始まりとする悠久の時を刻み続けています。

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金属器時代の幕開けをもたらした「海の民」

金属器時代の幕開けをもたらした「海の民」
弥生社会に大きな変革をもたらした金属器の登場。
先端技術と文化を伝え、古代国家成立へとつなげたのは海の民と呼ばれる人たちでした。

大陸や朝鮮半島と畿内を結ぶ瀬戸内の海の東端に位置する淡路島。畿内の前面に横たわる瀬戸内最大の島には今なお、古代国家形成期に重要な役割を果たした海の民の足跡が残ります。その始まりは紀元前の弥生時代。稲作の本格化とともに古代国家成立に向けて社会が大きく変化した頃で、淡路島ではこの時代の遺跡が多数発見されています。

古式の青銅器である21個の銅鐸と14本の銅剣はその代表格。発見された7個すべてに舌を伴う松帆銅鐸、14本がまとまって出土した古津路銅剣、同じ慶野村で見つかった日光寺銅鐸と慶野銅鐸など、その多くが海岸部で発見されました。
播磨灘を臨む海岸地帯を神聖な場所として埋納の地に定めた新たな祀りのあり方は、島と海を舞台に活躍した海の民が携わったことを想像させます。

紀元前後、淡路島には青銅器文化が栄えた平野の集落に取って代わるように山間地の集落が出現しました。こうした集落では、弥生社会に大きな変革をもたらした鉄器文化が畿内中心部に先駆けて取り入れられていました。

1世紀に鉄器の生産を開始した五斗長垣内遺跡では、100年以上継続した鍛冶工房の跡や朝鮮半島からもたらされた鉄斧などが出土。海の民の手によって、金属器とともに先端の技術と文化が伝えられたとされます。二ツ石戎ノ前遺跡では、辰砂を原料とする朱の精製を行った工房跡も発見されました。

これらの最盛期はいずれも邪馬台国の女王・卑弥呼が登場する直前の時代。山間地集落で海の民が生産した鉄や朱は、後に大王が求めた重要な物資でもあり、「倭国大乱」の謎を解くカギともされています。

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塩づくりと航海術で王権を支えた「海人(あま)」

塩づくりと航海術で王権を支えた「海人(あま)」
海の民から海人へ。製塩技術を発展させ、巧みな航海技術で船を操った海人の活躍によって淡路島は王権との関わりを深めます。海人の働きが王権を支えたのです。

金属器による先端文化をもたらした淡路の海の民は、後に「海人」と呼ばれるようになります。日本書紀には淡路島の海人の記述が登場し、大王が前方後円墳に葬られるようになった古墳時代の活躍ぶりを想像させます。そこに描かれているのは、応神天皇の妃を吉備に送る船の漕ぎ手として集められた「御原の海人」や、仁徳天皇即位前に朝鮮半島に派遣された「淡路の海人」たち。優れた航海術で瀬戸内の難所である明石海峡を行き来し、王権を支えた姿が記されています。

また、履中天皇即位前に安曇連浜子(あずみのむらじはまこ)に率いられ軍事行動を起こした「野嶋の海人」の姿からは、水軍としての役割も見て取れます。こうした記述の一つひとつから、淡路島が王権と深い関わりを持っていたことが分かります。「御原」「野島」の地名は今も島に残っています。

こうした海人の足跡を残す遺跡は島内各地に点在。海岸部で始まった塩づくりは3世紀に本格化し、5世紀には丸底式の製塩土器を生み出し、6世紀には熱効率の良い石敷炉の導入へと発展。作業時間を短縮し、大量生産を目指した塩づくりの変遷が畑田遺跡や引野遺跡、旧城内遺跡、貴船神社遺跡で見ることができます。製塩技術の革新によって大量生産された淡路の塩は、畿内の王権にも供給されたと考えられています。

巧みな航海術を持ち、塩の生産術にも長けた海人は、列島を統治する王権にとって必要不可欠な存在となっていきます。コヤダニ古墳では島内で唯一の三角縁神獣鏡が発見され、王権との強いつながりも見えます。その中で沖ノ島古墳群には多数の漁具が副葬されていることから、海人の長が葬られたと考えられます。

塩づくりと航海術。海を舞台に縦横無尽に活躍した海人は、古代国家形成期を支えた中心的な存在だったといえます。

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食で都の暮らしを彩った「御食国」

食で都の暮らしを彩った「御食国」
淡路島の海人と朝廷は、食を通しても深い関わりを持っていました。
天皇の食膳を司る「御食国」として、自慢の塩や海の幸を都へと運んだのです。

四方を海に囲まれた淡路島は、海の恵みを生かした塩や、魚、海藻といった海産物の産地として遥か昔から存在感を発揮してきました。その名声は都にまで届くほどで、万葉集など多くの歌集や書物にも「淡路の塩」や「御食国・淡路」といった表現が数多く登場します。

たとえば、山部赤人は万葉集の長歌に「…淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海をとめ…」と、奈良時代に受け継がれた海人(あま)の塩づくりの様子を詠みました。また、平安時代に編纂された延喜式の記録にも朝廷の儀式である月次祭の神今食の塩が「淡路の塩」と定められていることが記されています。海人の手によってつくられた淡路の塩が特別なものだったことがよく分かる記述です。

舟木遺跡や畑田遺跡、貴船神社遺跡、引野遺跡、旧城内遺跡、沼島の遺跡からは時代の異なる製塩道具が出土。海人が生業とした塩づくりの足跡をたどることができます。また、御陵水として都に運ばれた御井の清水では、現在も清らかな名水が湧き出ています。

塩、水のほか、海人が獲ったさまざまな魚介も都へと運ばれました。天皇の食膳を司る御食国として、優れた生産技術でつくられた塩や質の良い海の幸を朝廷に献上。王権や都の暮らしを支え、豊かに彩ったのです。長く続いた御食国の歴史は今なおこの島に息づき、多彩な食文化で訪れる人をもてなしています。

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